楽園ハワイと私

2002年、カリフォルニアよりハワイに引っ越してきました。ホノルル・ダウンタウンに住んでいます。

ハワイの歴史

ハワイにも戦争の名残が

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先のブログで1941年の真珠湾攻撃を話題にしたが、その攻撃の名残がハワイには今も残っている。オアフ島には、第二次世界大戦中、海岸線や山の尾根に数百規模でコンクリート製の防御陣地(ピルボックス)が建設され、今も各地で見ることができる。

ワイキキ周辺は開発が進んだため「当時そのままの位置で残ったピルボックス」は少ないが、ワイキキ周辺ではダイヤモンドヘッドにあるのを見た人もいるだろう。 ダイヤモンドヘッド頂上にあるのは、要塞化された火砲陣地で、監視所や防御施設として使用された。コンクリートの長い階段の先にあるのがそうだ。オアフ島の対艦防衛の重要拠点だった。

コンクリート製のピルボックスは、開戦直後に日本の艦船や上陸部隊を監視する観測所、機関銃などを据えて海岸防御を行う陣地、山の尾根や斜面から周囲を見渡す監視拠点 として、海岸線を取り囲むように1942年時点で何百もが建設された。日本軍隊が海から上陸するのではないかと恐れる人たちが少なくなった。

現在は、ラニカイなどハイキングコースの絶景スポットとして知られているものもあるが、ピルボックスがもともとは本格的な太平洋戦争の軍事施設だと知る人は少ない。写真は、真珠湾に近い軍施設の飛行場カラエロア空港に近いニミッツビーチにあるピルボックスである。


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ホノルル今と昔(39)天国の海に打ち上げられた潜水艇

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真珠湾攻撃といえば、日本海軍機動部隊による空襲がよく知られている。しかし、空からの攻撃に先立ち、海からの特殊潜水艦「甲標的」による攻撃も行われたことを知る人は多くはない。

真珠湾攻撃には、特殊潜水艦が5隻投入された。 潜水艦にはそれぞれ2人乗りこみ、合計で10名の搭乗員が攻撃に参加した。 5隻の搭乗員10名のうち、9名は戦死し、日本国内では「軍神」として讃えられた。

真珠湾攻撃における特殊潜航艇(小型潜水艦)の攻撃開始時間は、ハワイ時間12月7日午前2時半からとされている。航空機による攻撃が早朝午前7時55分に開始されるよりも、およそ5時間以上前の深夜のことだ。

特殊潜水艇の主な目的は、真珠湾内に侵入し、湾内に停泊しているアメリカ海軍艦船に対して魚雷攻撃を行うことだった。潜水艇は航続距離が短く、操縦性も悪かったため、5隻すべてが帰還できなかった「特別攻撃」であった。1隻の潜水艇も真珠湾に到達できなく、駆逐艦に撃沈させられたり行方不明となった。

この5隻の潜水艇の内1隻が、羅針儀の故障で航行不能となり海に脱出。しかし、艇長は海に飲まれ亡くなり、少尉は単独で漂着したオアフ島北ベローズビーチ付近でアメリカ兵に捕らえられた。少尉は太平洋戦争における日本人捕虜第一号となった。

上の画像はベローズビーチに上がった特殊潜水艦である。背景にはラニカイのモクルア島(双子島)が見える。攻撃後に潜水艇が上がったまさにその場所に行ってみた。背景のモクルア島の位置を参考にすれば、ワイマナロ湾に面した軍施設があるベローズ・フィールド・ビーチパークであることがわかる。

80年以上経った今も、そこには戦争とはかけ離れた、エメラルド色の静かな海の風景がある。


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砂糖産業の栄枯盛衰と観光鉄道

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ハワイのオアフ島には、かつて島内を縦横に走る鉄道が存在した。その中心を担っていたのが、オアフ鉄道陸運会社(Oahu Railway and Land Company)である。現在、その一部はハワイ鉄道協会が観光列車として引き継ぎ、エヴァからコオリナの先にある発電所近くまで、往復の旅を楽しむことができる。古い車両に揺られ、かつてのハワイの姿に思いを馳せる時間は、観光客にとって特別な体験となるだろう。

オアフ鉄道陸運会社の前身となる路線は、1899年に開業している。当時のハワイは、サトウキビ・プランテーション産業が最盛期を迎えて、広大なサトウキビ畑で収穫された砂糖を製糖工場からホノルル港まで輸送することが鉄道の重要な役割だった。エヴァ・プランテーション・カンパニーのように、島内各地にあった大規模なプランテーションが生産した砂糖は、こうした鉄道「シュガーケイン・トレイン」によって運ばれ、ハワイ経済を大きく支えていた。ホノルル港に近いチャイナタウンの西には、当時の駅舎が今も残されており、往時の繁栄を想像することができる。

しかし、サトウキビ産業の衰退と共に、オアフ鉄道陸運会社の鉄道事業は1971年に廃止された。長らくその役割を終えた後は、廃止された路線の一部をハワイ鉄道協会が1982年に引き継ぎ、今日では観光目的で運行されている。かつては物流の要として活用された鉄路が、時を経て観光資源として新たな命を吹き込まれた。長く続いて欲しいものだ。

ハワイ鉄道協会が運行する観光列車は、単なる乗り物ではない。それは、ハワイのプランテーション時代の歴史、経済の変遷、そして島で暮らした人々の物語を伝える動く博物館と言えるだろう。過去の栄光と衰退、そして未来へと続く現代の鉄道計画 は、オアフ島のユニークな歴史を象徴している。

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エヴァ・プランテーション・カンパニー(製糖会社の歴史)

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ハワイの歴史を語る上で欠かせないのがサトウキビからの製糖産業である。オアフ島エヴァ地区では、1890年1月に土地の開墾が始まり、同年4月には最初の日本からの移民労働者がエヴァ・プランテーションに到着している。 製糖工場の建設は1891年1月に始まり、翌年には最初の収穫で2,849トンの砂糖が生産された。

1902年までには、エヴァ・プランテーションは「世界で最も生産性の高い砂糖プランテーション」と称され、1エーカーあたり10トン以上の砂糖を生産する世界初の製糖会社となった。1933年には年間61,000トン以上の砂糖を生産してた。

1910年までに、エヴァ・プランテーション・カンパニーは人口約2,500人のコミュニティを形成していた。このコミュニティには、労働者のキャンプ地、プランテーションストア、クラブハウス、病院、診療所までが含まれていた。多くの日本からの移民たちが生活していた。ハワイで唯一、ソーダ水の瓶詰め工場を持つ砂糖プランテーションでもあった。

プランテーション内には約30マイルの鉄道が敷設されており、オアフ鉄道陸運会社が製糖工場からホノルル港まで砂糖を輸送していた。写真の精糖工場跡には、その鉄道路線の一部が今も残っている。その路線を利用して、現在は水、土、日曜に観光電車が運行している。

1941年12月7日の真珠湾攻撃では、軍の飛行場エヴァ・フィールドが近くにありエヴァ・プランテーション・カンパニーも機銃掃射や対空砲火を受け、9人の死者を出している。 アメリカ軍の迎撃で日本軍の戦闘機もエヴァで撃ち落とされている。

エヴァ・プランテーション・カンパニーのような砂糖プランテーションは、19世紀のハワイ経済を牽引し、日本だけでなく世界中から労働者が集まるきっかけとなった。これにより、ハワイには多様な文化が生まれ、ハワイ独特のピジン言語もこの時代に形成された。多くのプランテーションは1970年代までにその役割を終えたが、エヴァ・ビーチのレントン・ロードでは、当時の歴史的な建物を見ることができる。


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終戦の日、ホノルルはどうだった?

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1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終わった。今年も日本では、皇居前で膝づき玉音放送に涙する当時の人々の映像が流れただろうか。日本では決して紹介されないホノルルの街の歓喜の姿。勝者と敗者の姿はあまりに違う。

日本のポツダム宣言受諾は、首都ワシントン時間8月14日午前(日本時間15日)に発表された。ハワイは首都ワシントンより6時間遅れているので、ホノルルでも同日の午後から夕方にかけて大ニュースとしてラジオで流れ、人々は一斉に街に飛び出した。

ホノルル・ダウンタウンの中心部のキングストリートは人波で埋まり、アメリカ国旗を振ったり、軍服姿の兵士と市民が抱き合ったりした。 教会の鐘が鳴らされ、真珠湾でも艦船が汽笛を一斉に鳴らして終戦を祝った。

ホノルル港周辺やワイキキのホテル街でも人々が歌や踊りに繰り出し、即興のパレードのような熱気でだった。 当時多くの兵士や水兵がホノルルに駐屯しており、彼らは街へ繰り出して酒場やダンスホールに集まった。

ホノルルは夜になっても騒ぎは収まらず、音楽や花火、爆竹の音が鳴り響いた。 酒場では即興の「勝利パーティー」が行われ、軍楽隊が演奏し、兵士や市民が一緒に踊り続けた。 戦争中の暗い空気が一気に解放されたような「狂騒の一夜」として多くの人の記憶に残っているようだ。

1945年8月、終戦の日のホノルルは、真珠湾攻撃から始まった3年8ケ月の戦争の終わりを告げる大歓喜に包まれ、街中が「勝利の祭り」に変わった。大都市のほとんどが焼け野原となった日本の終戦とは対照的だ。


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落書きでなく貴重な歴史的価値のあるもの

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13年前に発行が廃止になった新聞紙のような無料紙がホノルルに存在した。毎週水曜日の発行のホノルルWeekly は、ホノルルを訪れる観光客だけでなく、地元に住む私たちにも当時のホノルルの最新の情報などを伝えてくれる貴重な存在だった。

他にチャイナタウンの情報紙も定期的に発行されていたし、ノースショアに行けばハレイワ周辺の情報紙も発行されていた。もちろん今はない廃止された情報紙だ。発行されるたびに新刊を手に取り、さまざまな情報を手に入れ、その地方の人々の生活を知ることができた貴重な存在だった。デジタル時代が紙の情報紙を消滅させている。

チャイナタウンのホテルストリートの壁柱に長く残る興味深いペイントがある。今は廃止になったホノルルWeekly が、このタクシーの表記について興味ある説明をしていたのを思い出した。風化して消えそうな白枠のペンキ塗りは今から80年以上前のもので、レンガの上に白いペンキで表したタクシー乗り場を知らせるものだ。

真珠湾攻撃のあった1941年12月のハワイの民間人の人口は25.8万人だったが、アメリカは有事に備えハワイには4.3万人の軍人がいた。その6ヶ月後には軍人の数は三倍に増え、1944年にはその数は40万人に増えた。その軍人は、太平洋の島々などの戦場に送られる男性兵士がほとんどだ。

戦前から半ば公認で売春が行われてきた赤線地区がチャイナタウンのホテルストリート周辺であった。ホテルストリートの1階が酒場で、2階に貸座敷があり娼婦たちが仕事場として男たちが群がった。そんな男たちをここから軍の兵舎に運ぶタクシー乗り場が今もチャイナタウンの壁に残っているのだ。

『TAXI FLAT RATE TO BASE (タクシー軍兵舎まで固定料金)』80年以上前には、命を落とすかもしれない太平洋の戦場に旅立つ若者たちが長い列を作って待ったタクシー乗り場。戦時中の貴重な歴史を伝えてくれるチャイナタウンの壁を落書きなどで失ってはならない。


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ぶたスーパーがワイキキに2店舗

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かつてはハワイにも10店舗以上あったスーパーマーケットがある。1935年に商品をショッピングカートに放り込みレジで精算するシステムを世界で初めて始めたスーパーマーケットだ。冷凍保温庫、店員にユニフォームを着させたのもこのスーパーが始めた。

「ピグリー・ウィグリー (Piggly Wiggly)」はアメリカ南部を中心に18州で現在500店舗以上が存在する。名前の由来は創始者が、柵の下から外に出ようとする子豚たちを見て、韻を含んだリズムのある覚えやす名前を思いついたそうだ。アメリカ南部を舞台にしたハリウッド映画ではよく登場するスーパーでもある。

カハラモールの前身のワイアラエ・ショッピングセンターが1954年にオープンした。当時のショッピングセンターで一番の集客をしたのが食料スーパーの「ピグリー・ウィグリー」だった。現在のカハラモールにあるホールフーズの場所に子豚がトレードマークの「ピグリー・ウィグリー」があった。偶然にもその場所は以前は養豚場だったそうだ。

1916年にアメリカ・テネシー州メンフィスにオープンしたスーパー「ピグリー・ウィグリー (Piggly Wiggly)」は、ワイキキにもオープンしていた。ワイキキの古い写真を見ると、ワイキキの目抜き通りカラカウア通り沿いにも「ピグリー・ウィグリー」があった。子豚の看板を見つけることができる。

古い調べ事をしていたら、ハワイの「ピグリー・ウィグリー」の8つの住所が書かれてある広告を見つけた。ワイキキのカラカウア通りには2店舗、1つはカラカウア2018 のコロナ前にダラーレンタカーのあった場所。もう1つがカラカウア2456 の、エッグスシングスのサークルホテル隣のABCストアの場所に「ピグリー・ウィグリー」があった。

ニューオリンズを訪れた際に、一度だけ「ピグリー・ウィグリー」に行ったことがある。可愛いTシャツを一枚買って来たのを思い出した。

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真珠湾攻撃の零戦パイロットの死(飯田房太大尉)

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ハワイ史で避けられない帝国日本海軍のパールハーバーアタック。その後、太平洋戦争が終結する4年近くの期間に多くの尊い命が奪われた。83年前の真珠湾攻撃で亡くなった飯田房太大尉の記念碑が、大尉の零戦が墜落した海兵隊航空基地内にある。

ハワイ時間1941年12月7日、空母「蒼龍」戦闘機分隊長になった飯田大尉は、ハワイ真珠湾攻撃に第二次発進部隊の零戦隊9機を率いて参加した。飯田大尉の部隊は、カネオヘ海軍航空基地を銃撃した後、ベローズ陸軍航空基地を機銃掃射した。再び、カネオへ海軍基地に戻り攻撃、飯田大尉の操縦する零戦が燃料タンクに被弾した。

飯田大尉の部下の一人は、生き延びて戦後次のように語っている。飯田大尉は「もし敵地上空で燃料タンクに被弾して、帰る燃料がなくなったら貴様たちはどうする』と問われた。飯田大尉は「俺なら、地上に目標を見つけて自爆する」と答えた。

飯田大尉率いる第二次航空部隊がオアフ島上空に着いたときには、すでに第一次航空部隊が奇襲をかけた後で、アメリカ軍は完全に反撃の態勢を整えていた。カネオヘ海兵隊航空基地の対空射撃は激しく、無数の曳痕弾が矢のように零戦に向かって飛んでくる。

飯田大尉の零戦の燃料タンクが被弾し、何本かの白い糸のようにガソリンが尾を曳いた。部下が飯田機に近づくと、飯田大尉は手信号で、「被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する」と合図し、そのまま単独で午前9時30分基地に突っ込んでいった。

海兵隊の軍人たちは飯田大尉の遺体を棺に入れて国旗で包み、衛兵隊が弔銃を撃つと言う正式の軍葬で飯田大尉を葬った。海兵隊基地で戦死した海兵隊兵18名と民間人1名とともに、同基地内に埋葬された。戦後何年かして遺骨は日本に還されたが、真珠湾攻撃30周年にあたる1971年に墜落現場に飯田大尉の慰霊碑が建てられた。毎年12月7日に追悼式が行われている。

戦意高揚のために、軍のプロパガンダとして飯田大尉が格納庫に自爆したように報道し、映画でもそのように描いている。実際には飯田大尉機は、海兵隊基地内にある士官宿舎付近の舗装道路に激突した。 基地内ではあるが、格納庫や滑走路から1キロ以上は離れた道路だ。

後に、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいと言われている。飯田大尉は真珠湾攻撃の前日、部下を集めて「この戦は、どのように計算してみても、万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい」という訓辞をしたそうだ。

飯田大尉は、支那事変ですでに日本の戦争の無謀さに気づき、日本の先行きにはっきりとした悲観的な考えをもっていたそうだ。出撃前に部下たちに語った通り自爆した飯田房太大尉は、どんな想いで最期を迎えたのだろう?

この動画は私が訪れた記念碑の模様です



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ハワイの歴史を知る(第100歩兵大隊記念館)

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ずいぶん前から訪れたいと思っていた第100歩兵大隊記念館のクラブハウスに行ってきた。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃は、ハワイに住む多くの日系人の人生を変えた。戦後すぐに設立されたのが日系人の退役軍人団体で1952年にクラブハウスが建設された。

日系退役軍人が集い、戦死した軍人の家族を支援することなどを目的にクラブハウスが建設され、退役軍人がほとんど亡くなった今は、戦時中の写真、軍服や軍需品や物品などの資料が展示され保管されている。

兵士は親が日本人である日系2世がほとんどで、アメリカで生まれたアメリカ人としてアメリカへの忠誠心を示すために日系人を代表して多くの日経2世たちが志願した。日本とアメリカの間で日系2世は悩みながらも、文句も言わないで忍耐強く戦った。ほとんどが10代後半から20代の若い日系人によって第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団が結成された。

ヨーロッパ戦線(イタリア、フランス)の戦いで、尊い命を捧げた340名の名前がクラブハウスに入ると目に飛び込んでくる。立派なイタリア大理石には戦没者名が刻まれている。私と同じ苗字もある、決して別世界の戦争ではない。お線香をあげ、鈴(りん)を鳴らし合掌した。

訪問者は私一人で、オフィスマネージャのエイミーさんにガイドしてもらえた。彼女はバイリンガルで、お祖父さんが日系2世の兵士だった。開館は月曜から金曜日午前の9時から12時まで。場所はホノルルのアラワイ運河の対岸でイオラニ高校前。520 Kamoku St. Honolulu 訪問には予約が必要で無料の入館だが、心付けを置くのがエチケット。電話808-946-0272


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ブラックポイントにある秘密のプール

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ダイヤモンドヘッドの東の海岸沿いにブラックポイントと呼ばれる地域がある。ブラックポイントには何万年も前に噴火した火山岩が今も残り黒い溶岩がビーチに転がっている。海の見える高級住宅地としても有名だ。

ブラックポイントでも海の見えるブラックポイント・ロードの先には専用門があり、ゲートコミュニティとなって誰もが入れる地区とはなっていない。友人に誘われてそのゲートコミュニティにある邸宅を訪れた。このプラックポイントの海岸沿いの豪邸の多くは1920年以降に建築された古い建物が多い。

医師である両親が60年代にボストンからハワイにやって来て、一目見て気に入ったブラックポイントの豪邸だそうだ。幼い頃から大学に進学するまで住んでいた友人の実家になる。自宅にも専用プールはあるけれど、彼は幼い頃から海岸に造られたインフィニティプールでよく泳いでいたそうだ。今でも時々、早朝の陽が上がる前に海岸のプールで寛ぐのがお気に入りのようだ。

そんな話を聞くと、その海岸にあるプールに行ってみたくなるのが人情だ。誰もが自由に行けるプールではない。海岸にあるプールに行くには鍵があるドアの小道を通っていかなければならない。彼の後について海岸にあるプールに着いた。プールの周辺には高いフェンスがあって、プール内に入るにはまた特別な鍵が必要だ。このプールに入るドアは、内から外に出るにも鍵が必要な特殊ドアとなっている。簡単には入ることはできない。

ブラックポイントにあるドリス・デュークが建設した豪邸「シャングリラ」前の海には、石垣で仕切られた海水を利用したプールがある。しかし、このプールは12m*7.5mの完全に独立した海水プールだ。満ち潮時に岩場に寄せるクラッシュした海水がプールの水を満たす自然の摂理を利用したプールとなっている。ハワイでは数少ない完全な塩水プールだ。

およそ100年前にブラックポイントに住む富豪が幼い娘のために建設したプールが、後にこのコミュニティに寄付されてコミュニティに住む者が利用できるようになったそうだ。現在は限られた数の住民とそのゲストしか利用できなくなっている。外部の不審者が近づかないように監視カメラが備え付けられ、コミュニティのセキュリティが定期的に見回りをしている。

友人が早朝に陽が昇る写真をインフィニティプールから送ってくれた。ハワイには想像もできないような生活をしている人たちがいる。


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