楽園ハワイと私

2002年、カリフォルニアよりハワイに引っ越してきました。ホノルル・ダウンタウンに住んでいます。

ハワイの歴史

落書きでなく貴重な歴史的価値のあるもの

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13年前に発行が廃止になった新聞紙のような無料紙がホノルルに存在した。毎週水曜日の発行のホノルルWeekly は、ホノルルを訪れる観光客だけでなく、地元に住む私たちにも当時のホノルルの最新の情報などを伝えてくれる貴重な存在だった。

他にチャイナタウンの情報紙も定期的に発行されていたし、ノースショアに行けばハレイワ周辺の情報紙も発行されていた。もちろん今はない廃止された情報紙だ。発行されるたびに新刊を手に取り、さまざまな情報を手に入れ、その地方の人々の生活を知ることができた貴重な存在だった。デジタル時代が紙の情報紙を消滅させている。

チャイナタウンのホテルストリートの壁柱に長く残る興味深いペイントがある。今は廃止になったホノルルWeekly が、このタクシーの表記について興味ある説明をしていたのを思い出した。風化して消えそうな白枠のペンキ塗りは今から80年以上前のもので、レンガの上に白いペンキで表したタクシー乗り場を知らせるものだ。

真珠湾攻撃のあった1941年12月のハワイの民間人の人口は25.8万人だったが、アメリカは有事に備えハワイには4.3万人の軍人がいた。その6ヶ月後には軍人の数は三倍に増え、1944年にはその数は40万人に増えた。その軍人は、太平洋の島々などの戦場に送られる男性兵士がほとんどだ。

戦前から半ば公認で売春が行われてきた赤線地区がチャイナタウンのホテルストリート周辺であった。ホテルストリートの1階が酒場で、2階に貸座敷があり娼婦たちが仕事場として男たちが群がった。そんな男たちをここから軍の兵舎に運ぶタクシー乗り場が今もチャイナタウンの壁に残っているのだ。

『TAXI FLAT RATE TO BASE (タクシー軍兵舎まで固定料金)』80年以上前には、命を落とすかもしれない太平洋の戦場に旅立つ若者たちが長い列を作って待ったタクシー乗り場。戦時中の貴重な歴史を伝えてくれるチャイナタウンの壁を落書きなどで失ってはならない。


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ぶたスーパーがワイキキに2店舗

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かつてはハワイにも10店舗以上あったスーパーマーケットがある。1935年に商品をショッピングカートに放り込みレジで精算するシステムを世界で初めて始めたスーパーマーケットだ。冷凍保温庫、店員にユニフォームを着させたのもこのスーパーが始めた。

「ピグリー・ウィグリー (Piggly Wiggly)」はアメリカ南部を中心に18州で現在500店舗以上が存在する。名前の由来は創始者が、柵の下から外に出ようとする子豚たちを見て、韻を含んだリズムのある覚えやす名前を思いついたそうだ。アメリカ南部を舞台にしたハリウッド映画ではよく登場するスーパーでもある。

カハラモールの前身のワイアラエ・ショッピングセンターが1954年にオープンした。当時のショッピングセンターで一番の集客をしたのが食料スーパーの「ピグリー・ウィグリー」だった。現在のカハラモールにあるホールフーズの場所に子豚がトレードマークの「ピグリー・ウィグリー」があった。偶然にもその場所は以前は養豚場だったそうだ。

1916年にアメリカ・テネシー州メンフィスにオープンしたスーパー「ピグリー・ウィグリー (Piggly Wiggly)」は、ワイキキにもオープンしていた。ワイキキの古い写真を見ると、ワイキキの目抜き通りカラカウア通り沿いにも「ピグリー・ウィグリー」があった。子豚の看板を見つけることができる。

古い調べ事をしていたら、ハワイの「ピグリー・ウィグリー」の8つの住所が書かれてある広告を見つけた。ワイキキのカラカウア通りには2店舗、1つはカラカウア2018 のコロナ前にダラーレンタカーのあった場所。もう1つがカラカウア2456 の、エッグスシングスのサークルホテル隣のABCストアの場所に「ピグリー・ウィグリー」があった。

ニューオリンズを訪れた際に、一度だけ「ピグリー・ウィグリー」に行ったことがある。可愛いTシャツを一枚買って来たのを思い出した。

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真珠湾攻撃の零戦パイロットの死(飯田房太大尉)

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ハワイ史で避けられない帝国日本海軍のパールハーバーアタック。その後、太平洋戦争が終結する4年近くの期間に多くの尊い命が奪われた。83年前の真珠湾攻撃で亡くなった飯田房太大尉の記念碑が、大尉の零戦が墜落した海兵隊航空基地内にある。

ハワイ時間1941年12月7日、空母「蒼龍」戦闘機分隊長になった飯田大尉は、ハワイ真珠湾攻撃に第二次発進部隊の零戦隊9機を率いて参加した。飯田大尉の部隊は、カネオヘ海軍航空基地を銃撃した後、ベローズ陸軍航空基地を機銃掃射した。再び、カネオへ海軍基地に戻り攻撃、飯田大尉の操縦する零戦が燃料タンクに被弾した。

飯田大尉の部下の一人は、生き延びて戦後次のように語っている。飯田大尉は「もし敵地上空で燃料タンクに被弾して、帰る燃料がなくなったら貴様たちはどうする』と問われた。飯田大尉は「俺なら、地上に目標を見つけて自爆する」と答えた。

飯田大尉率いる第二次航空部隊がオアフ島上空に着いたときには、すでに第一次航空部隊が奇襲をかけた後で、アメリカ軍は完全に反撃の態勢を整えていた。カネオヘ海兵隊航空基地の対空射撃は激しく、無数の曳痕弾が矢のように零戦に向かって飛んでくる。

飯田大尉の零戦の燃料タンクが被弾し、何本かの白い糸のようにガソリンが尾を曳いた。部下が飯田機に近づくと、飯田大尉は手信号で、「被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する」と合図し、そのまま単独で午前9時30分基地に突っ込んでいった。

海兵隊の軍人たちは飯田大尉の遺体を棺に入れて国旗で包み、衛兵隊が弔銃を撃つと言う正式の軍葬で飯田大尉を葬った。海兵隊基地で戦死した海兵隊兵18名と民間人1名とともに、同基地内に埋葬された。戦後何年かして遺骨は日本に還されたが、真珠湾攻撃30周年にあたる1971年に墜落現場に飯田大尉の慰霊碑が建てられた。毎年12月7日に追悼式が行われている。

戦意高揚のために、軍のプロパガンダとして飯田大尉が格納庫に自爆したように報道し、映画でもそのように描いている。実際には飯田大尉機は、海兵隊基地内にある士官宿舎付近の舗装道路に激突した。 基地内ではあるが、格納庫や滑走路から1キロ以上は離れた道路だ。

後に、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいと言われている。飯田大尉は真珠湾攻撃の前日、部下を集めて「この戦は、どのように計算してみても、万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい」という訓辞をしたそうだ。

飯田大尉は、支那事変ですでに日本の戦争の無謀さに気づき、日本の先行きにはっきりとした悲観的な考えをもっていたそうだ。出撃前に部下たちに語った通り自爆した飯田房太大尉は、どんな想いで最期を迎えたのだろう?

この動画は私が訪れた記念碑の模様です



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ハワイの歴史を知る(第100歩兵大隊記念館)

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ずいぶん前から訪れたいと思っていた第100歩兵大隊記念館のクラブハウスに行ってきた。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃は、ハワイに住む多くの日系人の人生を変えた。戦後すぐに設立されたのが日系人の退役軍人団体で1952年にクラブハウスが建設された。

日系退役軍人が集い、戦死した軍人の家族を支援することなどを目的にクラブハウスが建設され、退役軍人がほとんど亡くなった今は、戦時中の写真、軍服や軍需品や物品などの資料が展示され保管されている。

兵士は親が日本人である日系2世がほとんどで、アメリカで生まれたアメリカ人としてアメリカへの忠誠心を示すために日系人を代表して多くの日経2世たちが志願した。日本とアメリカの間で日系2世は悩みながらも、文句も言わないで忍耐強く戦った。ほとんどが10代後半から20代の若い日系人によって第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団が結成された。

ヨーロッパ戦線(イタリア、フランス)の戦いで、尊い命を捧げた340名の名前がクラブハウスに入ると目に飛び込んでくる。立派なイタリア大理石には戦没者名が刻まれている。私と同じ苗字もある、決して別世界の戦争ではない。お線香をあげ、鈴(りん)を鳴らし合掌した。

訪問者は私一人で、オフィスマネージャのエイミーさんにガイドしてもらえた。彼女はバイリンガルで、お祖父さんが日系2世の兵士だった。開館は月曜から金曜日午前の9時から12時まで。場所はホノルルのアラワイ運河の対岸でイオラニ高校前。520 Kamoku St. Honolulu 訪問には予約が必要で無料の入館だが、心付けを置くのがエチケット。電話808-946-0272


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ブラックポイントにある秘密のプール

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ダイヤモンドヘッドの東の海岸沿いにブラックポイントと呼ばれる地域がある。ブラックポイントには何万年も前に噴火した火山岩が今も残り黒い溶岩がビーチに転がっている。海の見える高級住宅地としても有名だ。

ブラックポイントでも海の見えるブラックポイント・ロードの先には専用門があり、ゲートコミュニティとなって誰もが入れる地区とはなっていない。友人に誘われてそのゲートコミュニティにある邸宅を訪れた。このプラックポイントの海岸沿いの豪邸の多くは1920年以降に建築された古い建物が多い。

医師である両親が60年代にボストンからハワイにやって来て、一目見て気に入ったブラックポイントの豪邸だそうだ。幼い頃から大学に進学するまで住んでいた友人の実家になる。自宅にも専用プールはあるけれど、彼は幼い頃から海岸に造られたインフィニティプールでよく泳いでいたそうだ。今でも時々、早朝の陽が上がる前に海岸のプールで寛ぐのがお気に入りのようだ。

そんな話を聞くと、その海岸にあるプールに行ってみたくなるのが人情だ。誰もが自由に行けるプールではない。海岸にあるプールに行くには鍵があるドアの小道を通っていかなければならない。彼の後について海岸にあるプールに着いた。プールの周辺には高いフェンスがあって、プール内に入るにはまた特別な鍵が必要だ。このプールに入るドアは、内から外に出るにも鍵が必要な特殊ドアとなっている。簡単には入ることはできない。

ブラックポイントにあるドリス・デュークが建設した豪邸「シャングリラ」前の海には、石垣で仕切られた海水を利用したプールがある。しかし、このプールは12m*7.5mの完全に独立した海水プールだ。満ち潮時に岩場に寄せるクラッシュした海水がプールの水を満たす自然の摂理を利用したプールとなっている。ハワイでは数少ない完全な塩水プールだ。

およそ100年前にブラックポイントに住む富豪が幼い娘のために建設したプールが、後にこのコミュニティに寄付されてコミュニティに住む者が利用できるようになったそうだ。現在は限られた数の住民とそのゲストしか利用できなくなっている。外部の不審者が近づかないように監視カメラが備え付けられ、コミュニティのセキュリティが定期的に見回りをしている。

友人が早朝に陽が昇る写真をインフィニティプールから送ってくれた。ハワイには想像もできないような生活をしている人たちがいる。


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戦艦アリゾナの最後の生存者亡くなる

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世界の多くの人の人生を狂わせた1941年12月7日の貴重な生き証人がまた一人亡くなった。日本軍による真珠湾攻撃で撃沈した軍艦アリゾナの乗員だったルー・コンター氏(102歳)が昨日、カリフォルニアの自宅で亡くなった。1177人の犠牲者を出して撃沈した軍艦アリゾナを生き延びた335人の最後の1人だった。

コンター氏は翌年1942年に海軍パイロットとなりニューギニア戦線では飛行機が撃墜されて、サメの出現する海を生き延びている。大戦後は情報将校として活動。アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン各大統領の軍事顧問も務めた。 

コンター氏が自分の体験を語るようになったのは、1991年の真珠湾攻撃50周年追悼式典に参加するためハワイにやって来てからだ。それまでは家族にも自分の体験を語ることはなかった。それ以降2020年まで毎年式典に参加して、自分が真珠湾で体験したことを語ってきた。

今年1月には真珠湾攻撃を生き延びた最後のハワイ在住の方が同じく102歳で亡くなった。10年ほど前には私の周りにも真珠湾攻撃の日を覚えているたちが少なくなかった。1945年オアフ上空をたくさんのB29爆撃機が連日のように飛来したのを目撃した人の話などが聞けた。今はそんな人たちはほとんどいない。


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日本人スパイが通った料亭が火事

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1941年の日本軍の真珠湾攻撃直前、ハワイで忙しく密かに諜報活動していた日本人がいた。吉川猛夫は開戦の年の3月に「森村正」と偽名を名のり、ホノルル日本総領事館に派遣されてハワイにやって来た。「森村」がよく出入りしていたのが、ダウンタウンに近い遠くに真珠湾を望む小高い丘に建つ日本料亭「春潮楼」(現「夏の家」)だった。 吉川猛夫の本当の身分は、大日本帝国海軍に属する海軍少尉だった。

領事館の事務員は表向きの顔で、実際は真珠湾のアメリカ海軍基地の動向を密かに日本に打電するスパイ活動をしていたのだ。この「春潮楼」(現「夏の家」)は小高い丘に建つ絶好の偵察場だった。料亭の2階から望遠鏡でパールハーバーに停泊する軍艦の数などを、日本に報告していたのだった。 

真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪れると、吉川猛夫の写真と共にそのスパイ活動が紹介され展示されている。1941年12月7日の日本軍の攻撃開始は、スパイの吉川猛夫にも知らされることなく極秘で行われた。当時のハワイに住む多くの日系移民の人生を狂わせる真珠湾攻撃だった。

日本人スパイが利用していた日系人が経営する料亭の建物が先週火事にあった。貴重な歴史的建造物が失われてしまったかと驚いたが、隣接する食材保管庫などが燃えただけで、スパイが通った料亭の建物には大きな被害がなかったようだ。数週間の営業停止を経て、レストランは再開されるようで一安心だ。


*レインボーカウント: 午後5時過ぎに出現 2024年 6日





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大砲があるダウンタウン


ホノルル港からダウンタウンに向かって一直線に延びる道路がある。旅客機がない時代、客船でハワイにやってくる人たちが誰もが利用した道路はフォート・ストリートと呼ばれていた。当時ハワイ一の目貫通りで、道路沿いにはホテルや百貨店などが立ち並び多くの人が行き交う通りだった。

フォート・ストリートの名前の由来は、200年以上も前にロシアが要塞(フォート)を建設したことによるものだ。1800年代にロシアの毛皮商人のためにカメハメハ大王が与えた領地に、ロシアが要塞を建設した。ロシア人はカウアイ島最後のカウムアリ王と、カメハメハ大王から領土を奪うことを陰謀していた。もちろん、大王は要塞をすぐに撤去させ陰謀は失敗した。

カメハメハ大王はその後、王国を守るために要塞を作り大砲を何門も備えた。その大砲の一つがアロハタワーに面するアーウィン記念公園に残っている。そしてフォートス・トリートのから一つ西を走るべセル・ストリートの四角の一角の歩道に大砲の砲身が2つ残っている。

1832年当時は52門の大砲が要塞を固めていたと言われている。大砲は32ポンド(15kg)の砲弾を発射することができた。それにしても、大砲の砲身がなぜ通りの角に埋められているのだろう?この角が要塞敷地の角であった印になっているのかもしれない。上の写真の左下角の大砲がわかりますか?

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真珠湾攻撃から82年

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まだ薄暗い午前7時前にキッチンのFMラジオをつけると、ジョン・レノンの「Happy Christmas (War Is Over)」が聞こえてきた。「本当に望めば、戦争は終わる!」子供たちが合唱するコーラス部分は、当時のベトナム戦争への反戦歌として知られたジョンの代表的なクリスマスソングだ。

82年前の今日12月7日は歴史的に忘れられない日米開戦の真珠湾攻撃のあった日だ。ハワイにとって今日の日が特別で、毎年攻撃のあった時間に合わせて追悼式が行われる。7年前の75周年追悼式には、初めてアメリカからオバマ大統領、日本からは安倍首相がパールハーバーの式典に参加して注目されたが、年月の経過と共に人々の記憶から忘れ去られようとしている。

たくさんの人の運命を変えた戦争では多くの尊い命が奪われた。この82年間、地球上で戦争のない日はなかった。今もウクライナや東シナ半島では憎しみが終わらず、尊い命が毎日のように奪われている。残念ながら、82年経っても進歩がないのが今の世界だ。

世界には平和を望まないで、戦争を続けることを選ぶ権力者が存在する。多くの人々が声高々に平和を訴えても、人の命を奪う戦争は無くならない。ジョン・レノンのクリスマス反戦歌で子供たちが合唱するように、「本当に望めば、戦争は終わる!」はずなのに戦争は終わらない。人に欲と憎しみがあるかぎり、世界から戦争はなくならないだろう。



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ホノルルの古い建物(パラマシアター)

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ダウンタウンの中心を東西に走るキングストリートは、ダウンタウンを境に東側をサウス・キング、西側をノース・キングストリートと呼ばれる。ダウンタウンから隣接するチャイナタウンを超えて、リリハ・ストリートとの交差点を過ぎると、ノース・キングストリートの左手に奇妙な建物が建っている。

見るからに古くて近くのチャイナタウンの影響かチャイニーズ様式の建物だ。この建物は、1929年に完成した1500席を持つ映画館(The New Palama Theatre)で建築家ルイス・デイビスによるものだ。ハリウッドの人気観光スポットのグローマンズ・チャイニーズ・シアターの完成が1927年だから、同時期にホノルルにできた映画館である。

ハリウッドのチャイニーズシアターは修復を経て今も映画館として残っているが、ホノルルのチャイニーズシアターは1970年にフィリピン映画館となり、今は教会(Su Gran Alabanza)として使われているようだ。建物の正面にはフィリピン映画館の名前(Zamboanga)の古いネオンサインが残っている。内部は当時の装飾様式が一部残っているようだ。

もし、ハワイでタイムマシンで昔に戻れるなら、この映画館がオープンした戦前のハワイを見てみたい。ホノルル港に入港した客船から人がダウンタウンにあふれ、ホノルルのダウンタウンが活気づいていた頃だ。かつてあった日本人街も活気があった時代だ。戦争が始まる前のホノルルを見てみたいものだ。


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映画館がオープンした時に上映された映画

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プロフィール

tigger

2002年、カリフォルニアよりハワイに引っ越してきました。ホノルル・ダウンタウンに住んでいます。
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