ジョン・レノンがニューヨークでマーク・チャップマンの銃の前に倒れて34年が経った。
ビートルズとの出会いは、私が中学生に入ってすぐのことだった。中学生の私の世界観を変えた。英語に携わる仕事に着いたのも彼らの影響が大きい。考えれば、私が今ハワイにいるのもビートルズがいたからだ。
昨年、念願のビートルズが生まれた英国リバプールに行くことができた。ビートルズゆかりの地を訪ね、新たに彼らの存在の近さを感じた。ストロベリーフィールズの門の前に建ち、ジョンの幼い頃に見た風景を想った。ジョンが5歳から18年間住んだメンディップスの叔母のミミの家には、まだジョンの魂が残っていた。ビートルズの初期のヒット曲の数々が生まれた場所だ。
ジョンが銃に倒れた翌年、ニューヨークにあるジョンのダコタアパートを訪れた。まだジョンの温もりがそこにあるようで、アパート前の守衛にジョンが倒れたのはまさに私が立つ所だと教えられた。ジョンは、40歳のまま今も私の中で語りかけてくれる。
マーク・チャップマンは1979年6月、カイルアの教会で日系人の女性と結婚式をあげて、ホノルルのダウンタウンに住んでいた。マーク・チャップマンはワイキキのコンドのセキュリティとして午前7時から午後4時まで働いていた。マークチャップマンはダウンタウンのコンドに住んでいた。1か月$425の21階にあるワンベッドルームからは、当時ダイヤモンドヘッドが見渡せたはずだ。
1980年12月マーク・チャップマンはジョンを殺害する決意をして、妻を残しハワイの自宅を出た。二度と戻ることのなかったマーク・チャップマンが住んでいたコンドが私の自宅近くにある。34年前の事件直後、ハワイでは彼の住んでいたこのコンドが話題になった。
事件から20年経過した2000年から、2年ごとに仮釈放審査が8月に行われている。今年も仮釈放申請が却下された。マーク・チャップマンは、ダウンタウンのコンドで何を考えていたのだろう?私は、このコンドを見るたびに人の運命を考える。マーク・チャップマンがハワイに戻ることは永遠にないだろう。
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ジョン・レノンが銃の前に倒れたのは昨日のように覚えていますが、マーク・チャップマンが殺害の日までハワイに住んでいた事は、今、知りました。
> 1980年12月マーク・チャップマンはジョンを殺害する決意をして、妻を残しハワイの自宅を出た。<
何故?どうして?は、調べてみます。
いいホリデー シーズンを、お過ごしください。デボラ・カー 似の、奥様と。
古い映画がお好きとか、、、、ジョン・カーと共演の「お茶と同情/Tea and Sympathy も、ご覧になっているでしょうね?