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ちょうど80年前の1945年4月12日、鹿児島県の鹿屋基地から日本海軍「第五建武隊」の16機の零戦が飛び立った。米軍主力はすでに3月26日に沖縄慶良間(けらま)列島に上陸し、4月1日には沖縄本島に上陸していた。決死の特攻作戦が始まり、北上する空母と戦艦を迎え撃つため、4月12日鹿児島県にある鹿屋航空基地から16機が飛び立ったのだ。

16機は大隅半島に立つ富士山を連想させる美しい山、開聞岳を二度と見ることはなかった。 重さ500kgの爆弾を装着したゼロ戦闘機は、敵の艦船に体当たりして沈める使命を持って出撃した。パイロットは必ず死ななければならない非情な特攻作戦だった。

戦艦ミズーリの右舷艦尾に背後から低空飛行で体当たりしたのが、まだあどけなさが残る岡山県出身の石野節雄海軍少尉(19)だった。その体当たりして湾曲した部分は、現在も真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリの右舷に見ることができる。彼の乗った飛行機は、衝突の際に飛行機の一部が主甲板に投げ出された。主甲板には飛行機の一部と彼の遺体も投げ出されていた。

戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン司令官は、敵機ながら海軍の伝統に従って若い日本人パイロットに適切な海葬を行うよう命じた。遺体にはアメリカ国旗に日本の国旗を描いて覆って、遺体を海に沈める水葬式を執り行った。戦艦に特攻した身元が判明したのは2001年で、ミズーリ艦上で鹿屋基地を出撃して戦死した特攻隊員の遺族が招かれて慰霊祭が開催されている。

昨日この出来事の80周年を記念し、パールハーバーの海上に停泊するミズーリ艦上で追悼式典が開催された。式典には、ウィリアム・キャラハン司令官の孫と、日本海上保安庁の司令官ら要人がハワイを訪れ式典が行われた。

太平洋戦争では多くの命が失われた。沖縄や本土に戦いの場所が移る前に、日本は降伏すべきだった。沖縄決戦前に大日本帝国が決心をしていたら、この19歳の尊い命も助かっただろう。また、日本に原爆が落とされることもなかっただろう。

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